彩の助の木刀術概要

木刀を扱う剣術的な事だけではなく、体術的な事もやっていきます。

心得の事 稽古から何を得るのか(座学)

「稽古は術理を得るために行い、得るものがただ一つの術理とならないように敏感に行う」と心得て下さい。

今回は稽古から「何を得るのか」というお話

(一番はじめに書いて置きますが今回は「何か」という言葉が頻発します。この「何か」は、疑問の対象を指した代名詞のつもりです。数学が得意な人はXと置き換えても大丈夫です。)

 

「何を得るのか」は剣術に限らずどんな術の稽古でも常にでてくる疑問です。

稽古をして何を得るのか。この(型の)稽古は何の習得を目指しているのか。という事は常に考えなければなりません。この何の部分を「何か」と呼びます。

 

他人の作り出した「稽古」から何かを学ぼうとする時に、何よりも大事な考え方、捉え方です。

「何か」を体得させるという目的がある→それを達成しうる動作を考え出す→そこで生まれたものが、稽古の型。です。

大事なのはあくまでも前者であって後者は主な目的では無いわけですね。

 

SFの世界のお話ですが、脳みそにCDドライブを接続してCDを読み込ませると、その「何か」が完全に身につくのであればそれでも良いのです。別に。当然そんなものありませんが。

 

今回の記事ではその「何か」を私なりに説明していきます。

一言では表しにくい概念的な事なので、いくつかの要因に分けて書きます。

 

・まずは稽古の裏にあるものを意識する、体感すること。

殆どの場合では稽古によって「型通りの動き」を習得する事が目的ではありません。

「型通りの動き」によって得られる「何か」を得るために「型の稽古」を行っています。

型通りの動きしかできないのではまるで意味はありません。といっても全く型通りの動きができないようではこれまた意味がありません。難しいところです。

 

型通りの動きにまずは身を投じて、その術の理を体感してやっと稽古が始まります。

 

一つ例えを出してみます。

こちらの記事にある「剣は先が弱く根が強い」が術の理だとします。

それを体感させるために

二人組で片方は剣先、相方は根本を使って打ち合う。

剣先と根本は交互に入れ替えて行う。

という稽古をします。

 

この場合、下線部が目的なのではなく、その裏に「」の中にある目的が隠れている。そういうことです。

表に見える稽古の裏に隠れている「何か」に敏感になりましょうという、ただそれだけの話です。

 

この「何か」、時にはとても言葉にしにくい事もあります。

だから言葉にできなくて無理をしたり苦しんだりする必要はありません。

「言葉にできなくても頭にはなんとなくある」と自信を持って感じることができたなら、大丈夫です。

それを感じる所から稽古が始まります。(そこで分かった気になってしまうとそこで終わりですので、常に疑問に感じ、敏感になって下さいね。

 

技をかけられた時のあの不思議な感じはとても良い示唆なので大事にして下さい。

 

ゲームみたいにいうと「技(スキル)の存在を知っている」状態です。

 

・次に意識して扱えるようになること(型の投影)

なんとなく「何か」を感じたら次に目指すのはその「何か」を扱えるようになることです。

分かっても使えなかったらなんにもなりませんからね。

ひたすら稽古!これにつきます。ちゃんと型どおりに。

この段階ではゆっくりやっても問題ありません。

作業をこなしていくように一つ一つ指差し確認して確実に行っていきましょう。

 

流派によって考え方は異なりますが、彩の助流ではゆっくりやって欲しいです。

疲れたら休憩してもいいんです。痛くなったらその日は終わりにしてもいいんです。

 

ちょっとずつ出来るようになっていきましょう。

型どおりにちゃんと出来るようになったら次の段階です。

 

ゲームみたいにいうと「技(スキル)が使えるようになった」状態です。

 

・次は意識せずに扱えるようになること(型からの脱却)

ちゃんと出来るようになったら次は意識せず扱えるようにしていきます。

この段階でもひたすら稽古!です。

意識せず扱えるようになって初めて身についたと言えるでしょう。このことを体得すると言います。

 

なんか天気が崩れそうだから今日は早めに洗濯物を取り込もうかなぁ…。

なんて考えながら出来ると良いですね。

簡単に書いてますけど、相当の稽古量を必要としますよ。ここはもう達人の域だと思って下さい。

 

この段階まで来ると「何か」…つまり術の理がほぼつかめてきているでしょう。

そろそろ「型」という形から抜け出し初めている頃です。

術の理というものはその型の中だけで生きるものでは無くもっとこう、普遍的な、体の一部というか、そういう根幹にある術です。

 

つまり型どおりでなくとも術の理が活かせているようになってきます。

本当に、こうなって初めて体得と呼べるのです。

 

車の運転に例えますと

クラッチを踏んで、ギアを変えて、エンジンの回転数を合わせて、クラッチを繋いで…という操作が自然に、一体に行えてる状態です。

ハッと焦った時に乱れてしまうようではこの段階には来ていません。

「人馬一体」という言葉の表す状態にも近いものがあるでしょう。

クラクションの適切な運用。苦手な方が多いんじゃないでしょうか?

免許を持っておいて恥ずかしい事と思いますが、私も得意ではありません。

そんな目に合っていないので確かめようもありませんが

止まっている時に脇見運転をしてる人が突っ込んできてる…なんてときにクラクションを使える分かりません。

避ける方に意識を取られてしまいそうな気はしています。

 

型の形に捕らわれず、自然に術の理が行かせている。ちゃんと出来るようになったら次はここを目指しましょう。

 

ゲームみたいにいうと「技(スキル)が自動で(適切に)発動している」状態です。

 

・まとめ

まとめますと、稽古によって得る「何か」とは術の理…術理の事です。

稽古というのはそのための手段に過ぎません。ですが現実的には最も理にかなった手段です。

天から何かを授かるとかSF世界とかそういう特殊なケースでなければ他に良い方法はほとんど無いでしょう。

その術理を得るために稽古をします。

 

きちんと型どおりに稽古をしないと身につかない…でもただ型どおりに動いてるだけでも身につかない。なんとも矛盾するような、難しいものです。

でも、それほど難しいものでもありません。難しいというより奥が深いと思って下さい。

それにその「術理」を得たらおしまいかと言えばそうでもありません。

 

長い歴史をかけて体系付けられた不思議なものからは常に、沢山学べることがあるはずです。

 

それを見逃さないように常に敏感になっておいて下さい。

「稽古は術理を得るために行い、得るものがただ一つの術理とならないように敏感に行う」と心得て下さい。

 

簡単に言うと型には型以外の教えがいっぱいですよ。という感じでしょうか。

 

・その先にある極地(オマケ) 

その先にあるものは私もただなんとなくあるだろうと感じるだけで、まだ良く見えていません。

いや私のような未熟者では到底分かりようもない所のお話なのかもしれません。

ただ1つ分かるのは私はこの域には確実に到達していない事だけです。

 

その先にあるものとは「術の理が完全に自身に浸透し一体化している」状態です。

こうなってくると自身ではうまくその存在を認識できないと思います。

 

術の理の習熟度が極限に達し、呼吸と同じように常にその理が共に在り

技を使うとか使わないとかではなくその人の性能として常に発現している状態。

ある種その理の副産物的なものまで全てが浸透しておりもはや技という形としてこの世には無いのだろうと思います。

 

ゲームみたいにいうと「技(スキル)が違うものに変容し、その人の性能(ステータス

)が変化(強化)されている」状態に近いと思います。